【宝治合戦はなぜ起こった?】執権派と将軍派の対立?
こんにちは!
宝治合戦は
なぜ起こった?
鎌倉時代の豊穣と三浦の対立は、
将軍派と執権派の対立?
細川重男さんの
「宝治合戦
北条得宗家と三浦一族の最終戦争」
を参考に説明していきます!
この本を参考に、
僕が噛み砕いて説明してます!
間違ってる所があれば、
ご指摘ください!
目次
宝治合戦はなぜ起こった?
少し前の時代では、
北条と三浦は
仲が良かったのに、
なぜ戦うことになったの?
北条と三浦の戦い、
宝治合戦はなぜ起こったのか?
それは、
執権と将軍が対立し、
執権派と将軍派、
派閥が分かれてしまった。
将軍派についたのが三浦。
両派閥のトップ、
北条時頼と三浦泰村は、
戦を回避しようと努力し続けた。
しかし、
両者の強硬派がぶつかり合ってしまい、
宝治合戦が始まったわけです。
執権派と将軍派の対立?
執権派と将軍派の対立?
そこん所、
もう少し詳しく!
鎌倉幕府4代目将軍の、
九条頼経が将軍になって、
しばらく経った後、
「将軍がいるのに、
将軍を補佐する立場の執権が、
力を握るのっておかしくない?」
と思った三浦の人々を中心に、
「将軍派」が形成される。
さらに執権北条泰時の死後、
19歳の北条経時が執権になるんだけど、
将軍頼経はすでに27歳。
「いやワシより年下の補佐役なんて、
いらんのだけど?」
と頼経は思ったに違いない。
確かに!
自分より経験の浅い
補佐役なんて!
すると、
頼経は将軍を解任され、
京都へ送られ、
息子の頼嗣(よりつぐ)が、
将軍になった。
この事で将軍派の三浦は不満を強めた。
そして病気になった経時は、
執権を弟の時頼に譲り病死。
最初に言ったように、
ここで執権派の北条(さらに安達)と、
将軍派の三浦の仲が悪くなった。
両トップ・時頼と泰村は、
戦を回避しようとしたけど、
両者の強硬派がぶつかり合ってしまい、
宝治合戦が始まった。
そんな感じだと思います。
まとめ
- 将軍と執権が対立し、三浦泰村らの将軍派と北条経時らの執権派が対立。両者は戦を回避しようとしたけど、強硬派がぶつかってしまい、宝治合戦が始まった。
- 北条泰時の死後、19歳の経時が執権に。27歳の将軍・頼経は不満を強めた。しかし将軍頼経が京都に送られ、三浦ら将軍派が不満を持った。この後は1。
分かりやすく書いたつもりですが、
間違ってる所とか、
「ここを省くのは
良くなかったんじゃない?」
と思う人も、
いるかもしれません!
コメントで教えてください!😅
確実なのは、
細川重男先生の本、
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この記事より詳しく、
理解が深まると思います!
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