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【家光の弟・徳川忠長とは?】将軍の弟なのに改易&自害?暴君?

2023年2月8日

こんにちは〜!

将軍・徳川家光の弟、

徳川忠長

について説明しますね!

父・秀忠と母・お江与に、

家光より溺愛されてた弟。

国松という名前で有名ですが、

実は、

大大名になったけど、

家臣を斬り殺したりして、

改易&自害に追い込まれた人なんです!

この忠長について、

小池進さんの本、

「徳川忠長」

を参考に説明します!

父・秀忠と母・お江与に兄・家光より溺愛されてた?

徳川忠長って、
将軍・徳川家光の弟で、
両親・秀忠とお江与の方に、
溺愛されてたんだっけ?

そう、

家光よりも。

詳しくは本を読んで欲しいんだけど、

家光には春日局という乳母が付けられて、

忠長はお江与の方に、

直に育てられたからでは?

と言われてる。

どちらも自分の
息子だけど、
やはり自分で
育てた方が
かわいくなるもん
なのかな〜?

そして、

秀忠とお江与の方は、

忠長を将軍にしようと考えてた。

そこで有名な、

春日局が家康に訴え出る事件が、

起こるわけですね!

家光・忠長・秀忠・お江与が

家康に会った時、

家康が家光を、

自分の横、

将軍の座に座らせようとした。

秀忠とお江与の方が、

「ほら国松(忠長)も」と、

忠長を座らせようとすると、

「ここは将軍になる者が

座る席じゃ!」

家康がブチ切れる逸話だね。

家康は、
「将軍は長男がなる」
という、
江戸幕府の決まり事を、
崩したくなかったんだよね!
これで家光が
将軍になる事が
実質的に決まった!

ここまでをまとめると、

忠長は父・秀忠、母・お江与に、

兄・家光より溺愛され、

2人は国松を将軍に

しようとする程でした!

理由は家光と違い

自分たちで育てたから!

しかし家康の一声により、

家光が将軍になることが

決まってしまいました!

甲斐・駿河・遠江で親藩大名に?駿河大納言?

ただし、

忠長は将軍にはならなかったものの、

最初は甲斐、

後に駿河や遠江で50万石を与えられ、

親藩大名になる。

50万石って、
かなりの大大名
じゃない?

このサイトによると、

  • 肥後細川家
  • 筑前黒田家
  • 広島浅野家

と同じ位の石高だね。

将軍の弟とは言え、
いきなり大大名に
なれるもんなんだね〜!

秀忠の弟で家康の息子の、

  • 尾張の義直
  • 紀州の頼宣
  • 水戸の頼房

と同じ感じで、

将軍の血を引いた親藩大名を、

増やしたかったんだろうね。

忠長は駿河大納言と呼ばれました。

将軍の弟が、
大きな力を持ってたら、
幕府の力は
安定するのかな〜?

というわけで、

忠長は駿河大納言と呼ばれ、、

甲斐・駿河・遠江50万石を与えられ、

親藩大名になりました!

家臣を切り殺し、改易されて自害?

それで、
溺愛されて、
いきなり大大名になった
忠長は、
その後どうなったの?

この後、

忠長は、

乱心して家臣を斬り殺し、

改易され、

兄・家光により自害に追い込まれる。

は???
家臣を斬り殺すって、
なぜそんな事をしたの?

ただ斬り殺すだけじゃなく、

「斬り殺した家臣を

次の日呼び付ける」

という錯乱した感じも伺える😅

えっ?
キ○○イじゃん!

そんな言葉を使うのはやめなさい😅

でも忠長は辻切りまで、

やってたらしいんだよね。

え?
見知らぬ庶民を
斬り殺してた
って事?
ヤバい!
怖い!
なぜ忠長は
そんな事をしたんだろう?

「プレッシャーが

あったから」

と小池進さんの「徳川忠長」には、

書いてあるね。

兄が将軍だから?

それもありそうだし、

若くして大大名になった

のもあるだろうか?

補佐する人が
付いてるだろうけど、
若者に3ヶ国の大大名
重荷かもね!

それに家光・忠長より下の弟で、

後に大老にもなる、

保科正之(ほしなまさゆき)が、

すごく優秀だという事が分かった。

それも、

プレッシャーになったのかも。

将軍の兄と、
優秀な弟。
そして若くして
3ヶ国のことを
考えないといけない!
忠長の事を考えると、
プレッシャーに感じるのも
分かるかな!

そして家臣の手討ちや、

辻斬りが幕府の耳にも入り、

忠長は甲府へ謹慎となった。

そして、

可愛がられていた

父・秀忠には勘当され、

秀忠の死の前、

忠長は会う事も許されなかった。

それは
少しかわいそう!

そして忠長は将軍家光の命で、

高崎に逼塞(ひっそく)させられ、

最終的には自害に追い込まれた。

家光にとって、
忠長は邪魔な弟だった
のかな?

いや忠長の乱行が起こるまで、

家光と忠長の兄弟関係は、

極めて良好だったらしい。

小池進さんの「徳川忠長」では、

家光が江戸の忠長邸に

たびたび訪れている事が、

書かれているよ。

仲の良い兄弟だったけど、
家光は泣く泣く忠長に、
自害を申し付けた感じか〜

そんな感じだと思う。

ただ、

もっと複雑な背景と要因があった

という事も、

小池進さんの「徳川忠長」で、

書いてありますね。

えっ?

詳しくは小池進さんの「徳川忠長」を、

読んでみてください!

忠長は兄の将軍家光、

優秀な弟・保科正之、

若くして3ヶ国を治めるという

プレシャーで、

家臣の手打ちや辻斬りに走りました!

その結果、

改易され自害に追い込まれました!

徳川忠長まとめ

  1. 忠長は父・秀忠と母・お江与から、兄・家光よりも溺愛されてました!長男の家光を押しのけて将軍にしようとするほど!理由は自分たちが育てたから!しかし家康の一声で家光が将軍になる事が決定!
  2. 忠長は駿河大納言と呼ばれ、甲斐・駿河・遠江50万石の親藩の大大名に!
  3. しかし兄で将軍の家光、優秀な弟・保科正之、若くして3ヶ国の大大名というプレッシャーで家臣の手打ち・辻斬りなどに走る!その結果、改易され自害に追い込まれました!

小池進さんの
「徳川忠長」では、
この記事に書いた
忠長の事について、
さらに詳しく
書いてあるんだよね?

そう。

徳川忠長の事を、

松平忠直や本多正純の改易に絡めて、

書いてある。

ん?
その2人の改易が
忠長と関係あるの?

あるよ。

というか家光の頃には、

幕府の体制はまだ不安定だったからね。

いつどこで反乱が起こるか

分からなかった。

気になる方は、

小池進さんの「徳川忠長」を、

読んでみてください!

以上です!

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